1。聖公会のFacebookグループにある芸能人の死亡(自殺されたと言われている)に関するコメントがあった。
2。悲しいものほど天国に導かれるべきではないかという胸の文である。
3。多くの方々がコメントを残したが大半の内容は以下の通りであった。
4。“良くは分からないが、苦しみの中で、虐められて、虐げれて、自殺したならこれ以上悲しいことはない…愛の神様はそのような人を見捨てられないでしょう。”
4。このような質問に、私はコメントができなかった。心苦しいかった。だが、人が自ら命を断つことについて、“理解できます、悲しみの中で、深い悩みの中で自殺という道を選ばざるを得なかった彼の魂を神様は受け入れてくださいます“とは言えない。
4。3。のような答えがその瞬間の慰めにはなるかもしれないが、正しい答えだとは思わないからである。
5。むしろ私たちの他者に対する無関心という罪の大きさを重く感じる。
6。その責任から逃れたいと思っているように見えるからである…苦しみの中にいる人を知らんぶりしている自分がいる。
7。キリストこそ唯一の救い主と言いながら、また自分はキリストによって罪が許され救われたと言い、その福音をポケットの底に入れたまま、再び取り出して喜び分かち合おうとしない自分がいる。
8。もちろん、自殺ということはそれぞれの事情、悲しくて苦しい出来事によるものであるため、その事実と対面するだけで苦しい。だが自殺は大きな罪である。神様が命を大切にされている事は聖書にも書かれている。
8。自殺はその人を含む私たちの罪である。無関心、無責任である…彼の死の責任は自分にはないと言いたがるものではないか自問する。
9。最後に、コメントの中には”イエス様も十字架で自殺された“というものがいた。私はこのコメントを見て唖然とした。
10。神である主、世の造り主である主、この世が存在する目的であり私が存在する理由であるイエスキリスト。その十字架を自殺のシンボルとでもしたいだろうか。
11。イエス様は十字架につけられる前から、人として生まれた事で、すでに死なれた。神であるキリストが人となられた事、それこそ死なのだ。被造物と同じ姿となられた事こそ神様における死である。
12。人としてお生まれ、ご自身のことを全く知らない、知ろうともしないものたちのために、十字架にで救いの御業を成し遂げられた我が主我が神。犠牲の捧げ物とされたキリストイエス。
13。自殺ではない、私が受けるべき神の怒りと恐ろしい裁きのため、罪そのものとされて、殺されたのだ、私の手のよって。あなたの手のよって。キリストを殺したのは私とあなたである。
14。そんなあなたと私が、キリストを殺した人々が、その罪の多さ、重さに気付かされ、今までの習慣や生き方を捨て、以前のものはキリストとともに死に、新しいものとして歩むのではないか。
15。携帯で書いているため取りまとめが難しく今日はこれで終わりたい。
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自殺に関する小考
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